2009年12月4日金曜日

静かなる時間


 夏の終わりから秋にかけて、多数の職人さんが出入りする豪邸の工事や、リフォーム工事などが続き、電動工具の音がしない日はなかったのですが、今日は久しぶりに電気のブレーカーを下げたままの日。

 次の新築邸宅用の化粧梁の鉋(かんな)かけです。昔は小僧の仕事といえば、一日中鉋かけだったそうですが、現在は機械化が進み、自動カンナ機が圧倒的なスピードで仕上げてくれます。しかしながら機械にも入らない大梁となるとそうはいきませんし、辛うじて機械に入っても幅広長尺となるとやはり仕上がりにムラが出る事もあるので、やはり昔ながらの手鉋が必要不可欠です。

 鉋の歴史を調べてみると興味深く、飛鳥時代は槍鉋(やりがんな)でありました。法隆寺の宮大工の西岡常一氏は焼けた金堂を飛鳥様式で復元したいという国の方針に応えるべく、槍鉋の復元に情熱を注がれました。

<もはや実物がない古代の道具、古墳などから出土した資料を全国から集め、金堂や五重塔の柱などを調べ、槍鉋で削ったあとを計測した。これが刃の大きさを決めるもっとも有力な資料となり、10cm前後と判明した。ところが試作品がまるで切れない。
 そのころ法隆寺に出入りしていた水野正範刀氏という刀匠がいた。茶人でもあり、法隆寺とつながりが深く、相談するうちに「私がやってみましょうか。」鉄は和鉄でなければならないと、法隆寺に残っていた飛鳥クギで鍛造した。古代の和クギは大きく、太い。出来上がったのは、光り方からして力があった。
 扱い方は絵巻物が教えてくれた。大工の仕事ぶりが出てくる絵を調べ、体との角度は60度がいいなど、実験の積み重ねで3年の歳月をかけ習得していった。
 槍鉋の復元成功で飛鳥人の美感にやっと近づけた。スプーンで切り取ったような跡になるが、そこに、あたたかみ、ぬくもりがかもし出される。>
<参考資料:日本経済新聞社「私の履歴書」宮大工棟梁・西岡常一>

 その後、室町時代になると台鉋が登場し、明治時代になると一枚刃から現在のような二枚刃に。二枚の刃を合わせて使うことにより、逆目が生じるのを防ぐように考案され、日露戦争の頃、熟練大工の不足で素人のような大工にも使えるようにする必要性からだったといわれています。
 
 白木の木組みは、木の持つ風合いが自然を身近に感じさせるとともに、その適度な吸湿性が快適な室内環境のための湿度調整の役目をはたすことが昔から知られていました。したがって、木を白木のままで使えるように仕上げる削り道具の鉋は、日本の木造建築の特徴である構造美に奉仕する道具ですね。

 話がだいぶ横道にそれましたが、材料はまっすぐ仕上げなけりゃいけません。削っては刃を研いで、削っては刃を研いで、それは静かな時間でありました。